経団連の中西会長が、大学卒業予定者の就職活動開始時期に関する「ルール」の設定役として、経団連はふさわしくないと発言し、その役割から降りることを表明しました。
至極ごもっともなことだと思います。
しかし、それを受けて世の中は大騒ぎです。
経団連に加盟なんかしていない企業も、まったくの民間団体である経団連が勝手に言い出したことを「遵守」しようとしていたり、そんな「ルールもどき」を全く相手にしてない外資系は、そもそも最初から歯牙にもかけていなかったなど、およそ建付けに大きな無理がある「ルール」でした。
そんなことは、この国の関係者は全員(企業も役所も大学も学生も親もマスコミも)がわかりきっていたことでした。わかりきっているけど、なにかオーソリティーっぽい存在が鶴の一声的に指令を出してくれると、安心して従うというのが日本人です。
特に、企業や大学関係者が日頃から強く抱いている「お上を有難がる意識」にとっては、非常に心地よい「協定」なのでした。
それなのに、当の元締が正論を公言してしまったので、一気に居心地が悪くなってきたのです。
大人たちは学生に向って、「自分で考えて自分で判断できる人間になれ」などと言っているくせに、各企業は自社で考えて自社で独自に動くことは決してせず、「業界横並び」が大好きです。
そんな横並び大好き社会にとって、いつまでも浸かっていたいぬるま湯が、突然栓を抜かれてしまったので、慌てて前も隠さずに素っ裸で右往左往しているというのが現在の構図です。
誠に以て「見たくない」醜態というほかありません。
ここに至って、「なんらかのルールは必要」としたり顔で主張する人達にしても、では具体的にはこういうやり方が望ましい、などと確たる提案を持ち合せているケースは殆どありません。
他方、大所高所から新しい提案をする人は少数いるのですが、中身といえば、「新卒一括採用をやめよ」とか「会社に就職するのではなく、職能別に選別するように、ジョブ型就職に移行せよ」などと、好き勝手に選んだ「欧米では・・・」の例を持ち出して来る、お決まりのパターンになっています。
新卒一括採用や、入社後の定期的ローテーションという、日本型人事制度の根幹が、そんな簡単にエイヤ!と変更できると思っていたら、それは組織を動かしたことのない学者か有識者の「学」や「識」に限界があることを図らずも露呈しています。
「ルール」を求める人の主張は、開始期日が一定でないと、選考がどんどん前倒しになって、学生が勉学に集中できる期間が短くなって、結局勉強できなくなるというものです。
ということは、学生には勉強してほしいと考えていることになります。
だとしたら、企業が学生を選考する際の指標として、GPAを導入することを提案します。
GPA(=Grade Point Average)は、要するに大学でその学生が履修した科目の成績の平均点です。学生1人1人に明確に算出されて通知されています。
私が現役の学生だった頃には、日本の大学にはこの制度がなく、海外留学時に先方の大学(大学院)が要求してくるので、自分で計算して記入した覚えがありますが、今は日本でも大学が自動的に通知しています。
これは大学における学生の勉学の成果を、極めて客観的に示す指標といえます。だからこそ、世界中の大学で中心的指標として信頼されている訳です。
これまで日本の就活シーンでは、大学でどんな勉強をしてきたか、また成績はどうだったのかということは、技術系の分野を採用するケースを除いて、あまり問題になりませんでした。(従来も、大学の成績表やGPAも提出させていますが、中心的な選考指標として活用はしてこなかった企業が大半でしょう)
日本の大学の文科系学部は勉強の場ではなく、その大学に合格できた時点でその学生の基礎学力の証明は完了しているという無言の共通認識の上に、就活面接という壮大な無駄なセレモニーが延々と続いていました。
学力で測れない、測りたくないから、「学業以外で力を入れたこと」(通称ガクチカ)などという、本人以外に傍証不可能な「盛り放題」の漠然たるストーリーが重視されています。
そのような、良く言えばノンフィクション、悪く言えば作り話、どちらにしても「数字にならない、ふわふわした(出来の悪い)自叙伝」を学生は必死で作文し、企業側の担当者は「なんだかな~」と本音では思いつつ、仕事だから仕方がないと渋々読んだり聴いたりしてきたのです。
なんという無駄なことが、日本中で行われていることでしょうか?
企業の経営者は、最近口を開けば人手不足だ、残業代だ、早期帰宅だと言っておきながら、意味不明の無駄な作業に貴重な人的資源を割いているのです。
日本型就活面接で強調される「協調性」という用語もよくわかりません。
無能な人間でも力を合わせれば大きなことが成し遂げられる、という美談が欲しいのでしょうか?
企業は経済主体であり、慈善事業や宗教団体ではありませんから、美談よりも経済的成果が問われる存在です。
まずもって自社の業務にふさわしい有能優秀な人材を確保するのが至上命題です。
烏合の衆というではありませんか。
協調性なる美談の素材を余りにも重視している(採用時も、採用後の業務遂行時も)ために、優秀な個人よりも、横並び意識の強い凡庸な社員が歓迎され、また、最初は優秀だった社員も周囲に合わせて凡庸化して行きます。
これで残業が減るわけはありません。
成果よりも協調性を重視しておいて、いきなり「残業するな」と言っても体が言うことを聞きません。
そもそも、「協調性」などという測定困難な概念を選考の中心項目にしてしまったために、採用活動が「面接」という、これまた手間と時間と労力のかかる作業に頼りきりとなっています。面接するほうも、されるほうも、非常にファジーで掴みどころのない行為に忙殺されています。
双方の投入活動量と効果のバランスが悪すぎます。
話をGPAに戻しますと、企業は「大学3年終了時点のGPAで1次審査を行います」とだけ宣言すればいいのです。
「2次選考は面接と適性検査を行います。2次選考に進むのは採用予定数の○倍の人数です。それを上回る応募があった場合には、3年終了時のGPAで1次選考を行います。」でいいのです。
実に単純明快な話です。
このメリットはたくさんあります。
1.学生に3年間、本来の学業に集中させることができる
2.「就活か、学業か?」というトレードオフの発想から、「学業をちゃんとやった者が就活へ進む」と
いう誰もが理想としていた(が実現しないと諦めていた)あるべき姿が実現する
3.導入が簡単(宣言するだけ。経団連や政府の旗振りは不要)
4.社会制度や従来の慣習・慣行をやめる必要がない
教育とか就職といった話題は、社会人は誰しも自分の経験から語ることができるため、百家争鳴になりやすいテーマです。みんなが一家言を持っているので、1つに収斂しにくい性質があります。
そこで、「学生は学業が最優先ですよね」というポイントに敢えて論点を絞ることしか、納得性を得るのは困難です。
ここで、「いや、学業よりもボランティア活動を優先すべきだ」などという考え方を持ち出す人も稀にいるかもしれませんが、あらゆる極論をまともに相手にしていては世の中の改革はできません。議論が分れそうになったら、王道を進むことです。
大学間の優劣はどうするのだという意見が必ず出ます。
私企業ですから、好きなように設定すれば結構です。
これまでも、そのように明示していなくても、特定の私立大学の卒業生を優先して採用してきた有名企業が多数あるのは公知の事実です。
上述の選考要綱のところに、「GPAの審査に際しては、大学間の比較衡量を行います」と明示すればいいのです。
大学によるGPAの格差(たとえば、A大学の3.7はB大学の3.4に相当する、という学校間比較のための全数データ)は、民間の専門機関によって公表されています。大学による単位や成績の「取りやすい、取りにくい」は、既にデータ化されているのです。
現在、大手企業では学歴による門前払いは、公式に認める会社はなくても、事実上、実務においては行なわれています。こうした現状よりも、「大学差調整後のGPA」による一次選考のほうが遥かに公明正大です。
この提案の長所は、「3年終了時のGPA」と明示することで、それ以前にフライングすることは物理的に不可能となる点です。
もっとも、「2年終了時のGPA」と明示する会社が出てくれば、開始は1年前倒しになります。しかし、その時には世論が「あの会社は大学4年のうち、最初の2年だけで判断する会社だ」という認識になります。
それに耐えられるのでしたら、やってみたらどうでしょうか。
横並び体質の日本で、そこまで踏み込める企業が出てくれば、それはそれで面白くなるともいえます。