多くの業界で、少子高齢化の影響を受けています。
「お客が高齢化している」「新しい若いお客が集まらない」という嘆きは、あちこちから聞えてきます。
さて、クラシック音楽も、そのような「消滅可能業界」のうちの1つです。(2014年に出された増田レポートの「消滅可能都市」をもじっています)
先日、某公共放送系のオーケストラの演奏会に行ってみました。
交響曲という出し物には、観客(聴衆というほうが正しいかも)に際立った特徴があります。
それは、「中高年の」「男性の」「お1人さま」が半数以上を占めるという点です。
音楽系の興行のなかでも、歌舞伎やミュージカルなどは、女性客のほうが多くなります。
オペラも、女性客が半数くらいはいるような感じです。
ピアノやバイオリンの演奏会は、これはもう断然、女性客が主流です。
ところが、交響曲、しかも、ブルックナー、マーラーときたら、これはオヤジの独壇場といえます。
どんなジャンルでも、女性客の場合には(「追っかけ」系の方を除いて)「お1人さま」というのは少数派ですが、オヤジは圧倒的に単独の方が主流派です。
そういうオヤジさんたちには、ある種の共通点があります。
それは、「恐い顔つきをしている上に、ニコリともしない」という印象を醸し出すことです。
こちらも還暦まで数年という歳嵩(としかさ)ですが、その眼からみても、来場客は先輩方ばかりで、気後れします。ということは、もっと若い方々から見たら、それはそれは「近寄りがたい」ことこの上ないと想像してしまいます。
ただでさえご年配のうえに、皆さん、顔つきも恐いので、会場全体がどこか殺伐としています。
無表情の顔からは、なにか「俺はインテリだぞよ」といわんばかりのオーラがぷんぷんします。
インテリで思い出したのですが、放送大学を聴いていたら、非常に興味深い講義がありました。
西欧近代における歌劇の序曲の機能についてです。
なぜ、歌劇の序曲の冒頭は華々しく始まる曲が多いのか?
それは、開演前の会場がざわざわと騒々しいので、観客を驚かせて黙らせる必要があったからである、というのです。
なぜなら、歌劇の主要な観客は金持ちだった。当時、王侯貴族以外の金持ちといえば、農場主や自営業者だった。
彼らは、金はあるけど学問がなかった。
反対に、交響曲などの演奏会は、インテリが多かった。物語の筋などがない抽象的な音楽も好んで聴いた。
インテリは概して生活に余裕がなく、入場料金の高い歌劇の良い席には入れなかった。
と、多少(というか大幅に)言葉を補って再現すると、こんな内容でした。
放送大学の講師は、各分野で日本を代表するような業績を上げている先生ばかりですので、専門家からそのように解説されると、非常にわかりやすくて感心したのを覚えています。
この西欧近代の状況は、いまの日本のクラシック音楽の聴衆とは、かなり様相を異にします。
交響曲と歌劇で観客(聴衆)の属性が、そこまで異なることは現在はありません。
さて、話を演奏会当日の光景に戻します。
インテリ風で、お金にも時間にも余裕がありそうなシニアの旦那方が多数お見えでした。
反対に、40代以下の来場客は断然少数派でした。
私が学生の頃には、オーケストラの演奏会といえば、もっと若い層がたくさん聴きにきていたものでした。
しかし、これは不思議なことではなく、年齢のことについては、単に現時点での人口ピラミッドを反映しているだけといえます。
団塊世代がピラミッドの絶対王者ですから、どこへ行っても70代前半のシニアが多いのは当然のことです