日経新聞の連載「私の履歴書」の読み処といえば、第2次大戦中や終戦直後の混乱期の描写です。幼少の多感な時期に修羅場に居合わせた当事者が描く生々しい様子は、その人が後年偉くなってからの自慢話の何倍も読み手に訴えるものがあります。
今月の橋田壽賀子女史の述懐にも、その当時を知らない世代の胸をも強く打つものがありました。
戦争は終ったけれども、食べるものがない。つてをたどって見知らぬ親戚を頼って、20歳の女子が東京から山形県の片田舎へ鉄道に乗る話でした。
同じことを考える人たちで、上野駅は大混雑。切符を買うだけで2日間行列に並びっぱなし。
その間、食べ物が無くてひもじい思いをしていたら、知らない人が自分の食べ物を少し分けてくれた。
やっと切符が買えて列車に乗れると思ったら、来たのは屋根もない貨車だった。
小麦粉を積んでたらしく、床は粉だらけで、乗客はみんな真っ白になった。
トイレがないから、線路脇の草むらで風呂敷を巻いて用を足した。
・・・そういうことが次々に語られています。
余談になりますが、こういう文章を読むにつけ、人に感銘を与えるのは、ことさら強調するための形容詞ではなく、淡々とした事実の羅列なのだということを再認識させられます。
さて、前置きが長くなったのには訳があります。
それは、戦争中や戦後の動乱期の凄惨が余りにも強烈だったために、そのあとの戦後復興期にさまざまな意思決定にあたることになった人たちは、その影響を受け続けて来ていたのではないかということをい言いたいためです。
つまり、戦後の指導者たちは、政治家も官僚も民間経営者も、皆んながそうしたトラウマを抱え続けていたということです。
だから、鉄道会社は「とくかく大量の乗客を運べ」が至上命題になるし、食品製造会社は「とにかくお腹がいっぱいになるものを、安く大量に作れ」が社是になるという調子でした。
街には焼け出されて帰る家を失った多数の被災者や、海外の戦地から帰還してきた復員兵で溢れていましたから、「狭くてもいいから、とにかく大量の住宅を供給しろ」というのが住宅政策の根本理念でした。
これは、当時としては当然の発想と意思決定です。
ところが問題は、その戦災復興型の発想が、いまもって連綿と続いていることです。
若干脱線するのですが、さきほどの話の続きとして、列車のスペックを見てましょう。
昭和10年代から大量に生産された国鉄の標準的な客車オハ35型は、戦後の動乱期にも大活躍した形式ですが、この客車の座席の間隔は1,455mmでした。
向い合わせになっているボックス席に座っているとして、自分の背中の座面板の真ん中から、向い合わせで顔を合わせている座席の背もたれの真ん中までが、145.5センチでした。
戦後に高度成長を経て、日本経済は「もはや戦後ではない」と経済白書が豪語したのが1956年でしたが、その数年後から生産が始まる国鉄の近代的な電車の座席を見るとびっくりします。
急行用の153系電車では1,460mmと、戦前戦中の旧型客車とほぼ同じというのも驚きですが、普通列車に使われる111系近郊型電車では、1,420mmと3.5センチも狭くなっていたのです。
ちなみに、オハ35型は急行にも普通列車にも使われていたので、普通列車の乗客にとっては居住性が逆に悪化したことになります。
戦中戦後の座席間隔を超えるのは、1978年の113系電車改造型の登場まで待たねばなりません。
ここでやっと1,490mmとなるのですが、それも束の間です。
国鉄の後を受けて首都圏を受け持ったJR東日本は、近郊型電車の向い合わせのボックス席を廃止して、横長のロングシートに付け替えることを始めました。東海道線で向かい合わせでお弁当を食べながら車窓を楽しむというのは昔の車内の光景となり、2時間揺られる熱海も沼津も御殿場も、山手線と同じ通勤型のシートの電車になってしまいました。
これは、その座席形式の車両のほうが、より多くの乗客を詰め込めるからです。
この方針は今でも続いています。
「より多く」「質より量」というのは、我国の経営者の頭から片時も離れることはありません。
戦後74年、既に新元号の御代に入ったのに、産業界は戦後復興期のままです。
復興需要どころか、既に人口が減少してから随分と時間が経っています。
それなのに、どの企業も「売上前年比○○%増」を掲げています。
以前にも同じことを書きましたが、企業の成長とは、本来は企業価値の成長であるべきです。
企業価値とは、その企業が世の中に提供している価値の代替指標です。
企業の社会的使命のうちの重要な2項目である雇用と納税を経て、手許に幾らの利益が残ったのかという点こそが求められる筈です。
最終的な利益がその企業の価値の多くを構成するのですが、売上は利益を導出するための手段ではあっても、利益を超越する最終目的ではありません。
もっとも、株式市場においては、企業の利益額よりも売上伸長率のほうに株価が敏感に反応する傾向があると思われているとすれば、それは投資家が未熟というよりも、利益面での結果を出せず、売上高しか判断材料として提示できていない企業の行動様式が見透かされた結果だというべきでしょう。
かくして、自分の在任中は売上高を減らしてでも利益体質の強化を図るーーという正論を堂々と開陳できる骨のある経営者は絶滅危惧種になりました。
仮に、正論をぶち上げても、長い間の売上至上主義が組織の隅々まで染みついている大企業が、短期間で方向転換をできわけがありませんし、そのためには各種の構造改革、中には痛みを伴うリストラも避けては通れないでしょう。
それら全てをサラリーマン経営者の標準的な在任期間とされる「2期4年」の座布団たらい回し期間に完了させて、さらに株価も上昇させるというのは至難の業です。
なにもそこまで自分を追い詰めなくても、自分のところに座布団がある4年間だけ前例踏襲で「前社長の方針を堅持して参ります」と言っていれば、4年後には会長となって秘書・個室・黒塗り高級車・高額報酬・肩書の5点セットが目出度く継続するのですから、敢えていばらの道を選ぶ奇特な人が少ないのも妙に納得するわけです。(ここで納得してはいけないのですが)
そこへ昨日の報道では、トヨタとパナソニックが住宅事業部門を統合するという発表がありました。
さきほども述べましたが、住宅産業は戦後の夥しい住宅難に対処するために、とにかく短期間にできるだけ大量の住宅を供給することが至上命題でした。
木造の一軒家を1軒1軒建てていたのでは到底間に合いませんから、工場で生産するプレハブ住宅が市場を席捲しました。
それによって、住宅難はなんとか解消に向かったのはいいのですが、その結果、諸外国から「兎小屋」と蔑視され酷評されることになったのは記憶に新しいところです。
それでも、住宅産業はその「質より量」の体質から転換できません。
住宅産業(ハウスメーカー、マンションメーカー)は、過大なノルマを背負った「突撃セールス」を中心的な営業手法としている典型的な業種です。
戦後の住宅難の時代ならば、需要は黙っていても増加していましたから、「増える総需要分を他社に負けずに取って来い!」という業務命令は、中身はともかく考え方としては合理的といえました。
ところが、今は人口減少時代です。
空き家も空前のペースで急増しています。
要するに、住宅産業は斜陽期の真っただ中にいるのです。
それなのに、戦後復興期と同じ発想と行動をしているのです。
そもそも、発想自体に無理があるから、それを実現するためには行動にも無理が生じます。
それが、レオパレスのようなサブリース型のマンションメーカーの登場と破綻です。
単に「買って!買って!」と営業しても、簡単には買ってくれないから、じゃあ銀行と組んで融資を最初に組んじゃえ。空室を心配するから最初から全部借りちゃえ。
「どうだ、文句ないだろ!」という営業手法です。
レオパレスだけがマスコミで叩かれていますが、同じ営業手法をやっている上場企業はほかにも複数あります。
これらはどの会社も飛び込み型の営業スタイルです。
(私個人のところにも年がら年中飛び込みがあるので、本当に困っています)
相手が迷惑しようが、マスコミで同業者が叩かれようが、やめられないのです。
ノルマがあるからです。
ノルマはロシア語です。
計画経済を進めたソ連で発生した概念だそうです。
日本の戦後の平等主義に一番驚いたのはレーニンだっただろう、というのはよく言われることです。
計画経済を必達するには、ノルマが必要でした。
アメとムチのうち、アメ(経済的な報酬)を否定した共産主義においては、死刑も含めたムチだけでノルマの達成を求めました。
だから無理がたたって共産主義は本家のソ連で崩壊したのです。
それなのに、日本でいまだにノルマが普通に課せられていることには、インド人ならぬロシア人もびっくりでしょう。
「そんな無理はもうやめよう」。
大変遅まきながら、やっとわかったのがトヨタとパナソニックだったという訳です。
遅いには遅いのですが、業界の先鞭をつけて、まったく無関係の業種2社が傘下の事業統合をする決断をできたというのは、さすが世界的なトップ企業の経営者といえます。
褒めてるのか、けなしているのか?
両方です。