就活シーズンです。
面接などで会社側が学生さんをチェックするポイントのなかでも、「協調性」はどの会社でも上位にくる項目です。
「組織には協調性が重要だ」とよく言われるのですが、それって本当なのでしょうか?
協調する人と、しない人がいたら、それは協調する人が好かれるでしょう。こうして、協調する人が入社することになります。
問題は、主として2つあります。
1つは、その傾向が毎年毎年、ずーっと続くことです。
2つめは、「協調性も大事だけれど、○○性も必要だ」などといって、協調性とはまったく別の特質である「○○性」のある人物を求めようとする会社でも、結局は「協調性を備えた○○的な人物」が選ばれる傾向にあることです。
たとえば、「協調性も大事だけれど、独創性も非常に重要だ」などといっている会社でも、いざ具体的に選考過程に入っていくと、「協調性を備えた独創的な人物」が選ばれていきます。
ここでは、「極めて独創的な人物」は振るい落とされる宿命にあります。
何故なら、「極めて独創的」な人は、協調性に欠けるからです。もとい、正確に申しますと、「協調性に欠ける」のではなく、「協調性に欠けると判断されやすい」からです。
それは、そうです。
ほかの人とは1味も2味も違った、独特のセンスを備えていることを独創的というのですから、その「違い」の度合いが濃いほど、ほかの人とは「差異が目立つ」ようになるのは当然のことです。
さっきから、文章がもたついているのが、書いている本人でもわかります。
要するに堂々巡り、同語反復、トートロジーに陥っているのです。
それは、企業側の姿勢が、二律背反の根本原理を無視して、本来相容れない概念を同時に並立させようとしているからです。
いま、話を単純化するために、協調性を白、独創性を黒とするとしましょう。
普通の面接では白ばかりになってしまうので、たまには黒も採ろう、ということになったとします。
しかし、面接官自身は従前の方針で採用された社員であることもあって、かなり真っ白な人というのが通り相場です。その真っ白系の人が、本物の黒系の候補者を面接すると、自分とは正反対のキャラクターに強い違和感を覚えます。
「うわー、こりゃ勘弁してほしいなー」というのが正直な印象となります。
こうして何人か面接していくと、本物の黒の度合いは小さくても、白っぽい側面も備えた人に好感を抱くようになります。
こうして選ばれた「黒系の人」は、実は黒の度合いはかなり小さく、ほとんどグレー、それもライトグレーで、水墨画の薄墨のような微妙な位置づけの人になります。
そのうえ入社後の研修では、どの色の新入社員も一堂に集められて同じ研修を受けます。
もっぱら、その企業の組織人になるように仕込む同化教育です。当然、協調性の大切さが強調されます。
ライトグレーの人の「グレー度 degree of grey」は、どんどん希薄化され、白へ白へと色落ちしていくのです。
グレー度が下がると、企業側は使いやすいかもしれませんが、せかっくの独創性のグレード(grade=度合)も低下しているので、その人の持っていた優位性は既にあらかた消失しているでしょう。
こうして、その企業においては、協調性の濃い人ばかりの集団に純化しています。
さて、その協調性の高い人たちの集団が、企業の方針として「差別化」を掲げていることが多いのが笑えるところです。
差別化とは、いうまでもなくdifferentiationの訳語ですから、different=「他と異なる」ということです。
協調性が高い、すなわち、考えることも行うことも他の人と横並びであることを最大の価値としている人々が、一致団結すると「他と異なる」発想や行動ができるようになるなんて、本気で考えて言っているのでしょうか?
人材の採用や育成の時の基本方針と、市場における経営戦略とが180度乖離しているのです。
では、どうすれば良いのでしょうか?
それには、奇人・変人を採用し、奇人・変人を凡人化するような教化を施さないーーということに尽きます。
有能・優秀の反対は、無能・凡庸です。
凡庸な人間には、優秀な人間の教育はできません。
そんな至極当然のことがわかっていないのか、仮にわかっていても、そのことには触れないようにしているのです。
独創的な、ユニークな発想をする人材は、奇人や変人の要素が多いものです。その良さを殺してしまうのではなく、ますます奇人化・変人化して、競合他社の奇人・変人よりも「奇人度・変人度」において凌駕するような超奇人・超変人に育てることをしましょう。
いまの硬直化・官僚化した大企業には無理な話かもしれません。
であればますます、中小零細企業の出番です。