知人のHさんから、ご長男を紹介されました。ここではH君としておきましょう。
H君は、私立文系では最難関のK大学を目指していたのですが、残念ながら果せず、その次のランクの全国的に有名な伝統校に現役で入学しました。
学ぶ意欲満々で入学してみると、周囲は遊ぶことやアルバイトにうつつを抜かす学生ばかり。有名大学といっても単位を取るだけなら難儀なことは何もなく、拍子抜けする毎日だったらしいのです。
大いなる期待を抱いて入った大学に裏切られたH君には、「いったい自分は何をやったらいいのだろうか?」という根源的な疑念が生じてきました。その解を求めて、H君は多様な「つて」をたどって人に会うようになりました。
いま流行の言葉でいえば、「自分探しの旅」とでもいったところでしょうか。
まさか、旧知のH氏(彼がまだ20歳代前半だった頃からのつきあいです)の息子さんがそんな状況にあるとは知らなかったので、いきなり出会っても、まとまったアドバイスができませんでした。
常に Get ready でいることを自分に求めてきたのに、こんなに簡単に不意打ちされているようでは、甘い甘い。修行が全然足りていないと反省しきりです。
そのときに伝えたのは、10代というのは脳が何でも吸い込む、とてつもないパワー全開の時期であるから、とにかく学べと。中年になってからでは、学ぼうと思っても吸収力が劣化していて自分にもどかしい。今しかできないことは、何でもいいから学ぶことだと、そんなことでした。
分野としては、後年になって必ず役に立つうえに、時間と吸収力に格段の余力がある若い時期にしかできない領域として、次の3つを挙げました。
1.語学
2.数学
3.哲学
・・・というと、ちょっと格好をつけてる(盛ってる)書き方になってしまうので、正直にいうと、そういうふうに決然と「ご指導」できればよかったのでだが、実際には、むにゃむにゃ、もごもご、という感じでした。
その時にいいたかったのは、こういうことです。
語学については、英語英語といわれているけれど、英語は最低限必要だけれど、もし向学心があるのなら、第2外国語はやった方がいいよ、と。自分の世代は大学は第2外国語が必修だったから当たり前だと思っていたのですが、いまやK大学クラスでも第2外国語は必修から外れていると知って驚きました。
なお、自分の学生時代には「社会科学ならドイツ語」という戦前の古い思考がまだ残存していたのと、独墺系古典音楽にかぶれていたこともあって、迷うことなくドイツ語を選択したのですが、これがあまりよくありませんでした。
ついでに余計ながら欲張って第3外国語も選択しました。欧米系ばかりでは能がないと思って、ちょうどNHK講座の講師としてテレビで教えていた先生が教えるというので、中国語を選択したのですが、人気教授とみえて第3外国語なのに大きな教室に満席の盛況。「こんな環境で語学など教えることはできない」と先生は憤慨していましたが、自然と学生のほうでも脱落する者が多数出てきて、結局は大きな教室にほどほどの学生数という感じに落ち着きました。
なお、自分は脱落組に属してしまいました。履修登録はしたが、長続きしませんでした。
第2外国語のドイツ語は、フランス語やロシア語などに比べて、文法は最も英語に近いし、発音は基本的にローマ字読みとドイツ語特有の少ない規則通りということで、まじめにやれば難儀するようなことはないはずでした。
それなのに難儀したということは、まじめにやらなかったということになります。
自分が通っていた大学では、最初の1年半の必修科目を落とすと、3年次からの後期課程に進学できないどころか、2年秋学期から1つ下の学年に落とされる降年(「こうねん」、要するに落第のこと)という仕組みになっていたので、高い評価でなくても何でもいいから、とにかくドイツ語の単位を取らなければなりませんでした。(現在は、単位を取得しても、平均点を低めてしまうような低い点数では結局進学できないように厳しくなったらしいのですが正確なことは知りません) ともかく、ギリギリで3年次へ進学したのでした。そういう程度であったのに、その頃のことは知らぬ顔をして、上から目線で偉そうに宣うというのも人格不全を地で行くので、当時の事情は誠に恥ずかしながら告白しておくことにします。
脱線が長くなりましたが、その後にフランス人と商売をするようになったりして、そのときには英語さえあればさほど不自由はしなかったのですが、ドイツ語よりフランス語のほうが地球的には影響範囲が広く、ラテン語系の言語には近似性もあるし、アラブ諸国、アフリカ諸国などにはフランス語圏とでもいうべき地域がいまもって存在することから、グローバルに活躍する若者には、どちらかと問われればフランス語を推奨しています。(無論、スペイン語も適用範囲が広いのでお奨めです)
かくいう自分は、30代から幾度もフランス語を習得しようとして、何冊も書籍を買い求めたり、カセットテープ(そういう時代でした)を買って聞いていたりと、結構手間と時間をかけたつもりでしたが、結局モノになりませんでした。なので若者には、20歳前後でしかできないことは、その時にやるようにお勧めする次第であります。
2つめの数学は、いまやデータサイエンスといえば、AI(人工知能)やロボティクスなどこれからの人類の進化の方向性を決定づける技術革新の大本(おおもと)、根幹です。
データサイエンスを修得した学卒者は、アメリカ、中国、インドなどでは初任給3千万円もあるという報道がなされるくらいなので、市場価値が高いということです。その専門家にならなくても、そういう人種と対等に渡り合える自己の内面に自信を若いうちから植え付けておくというのは実に重要なことだと思います。
したがって、数学系の勉強も頭が柔らかいうちに積極的にしておくべきでしょう。
またまた自分の学生自体の話で恐縮ですが、自分は大学の頃は他学部の科目で自分の興味関心に沿ったものを徹底的に履修して期末試験も受けて単位を取得しました。所属は経済学部でしたが、法学部、文学部、理学部、工学部、教養学部後期課程の科目を履修しました。
だからどうということはないのですが、社会人になってからそういうことをしようとしてもなかなか難しいのが実情です。学生時代というのは、その道の権威(というほどでもない先生であっても、難関の正規教員のポストを射止めた専門家です)に個人的な質問をしに行って、研究室を訪ねれば応じてくれるというとんでもない恵まれたポジションにあるのです。しかも、それが授業料の中に含まれていて、1時間いくらと別途請求書が回ってくるわけではありません。使わなければ損といえます。
データサイエンス系の科目が教養課程にないということは、令和の時代の名門大学では考えられないとは思いますが、もし仮に設定されていなくても、他学部の科目を履修すればいいわけです。要は本人にその気があるかどうかということになります。
3つめの大きなくくりは、哲学です。
世界的に活躍する人間には、地球の各地において信奉されている宗教、それと相互に影響を持ちつつ現在に至る学問、人間の存在自体の意義を問う学問である哲学、その諸流派の系統と概略については知っておいたほうがいいにきまっています。
これも後年になって修得しようとしても、原書を読む時間もない(気持ちも続かない)だけでなく、日本語訳であっても読み続けられないという、自己の弱さを露呈してしまうことになります。
だから、意欲に燃えているうちに、先哲の世界を読み漁ることは貴重な時間の使い方と確信しています。
とはいえ、以上のことを言うのは簡単でも、ではどういうふうに勉強するのかといえば、やはり古典を読むこと、専門家の先生が勧める本を読むことに尽きると思います。
スマホでは情報の断片を取得することはできても、思考力の醸成に資するような深く系統的な人智に至るには紙の本を読むしかない、ということを出口治明さんが言っていますが、まったくその通りだと思います。
(なお、それでは電子書籍ではだめかと問われれば、世界的哲学書などが電子版になっているのかどうかよく知らない身としては返答できません)
自分が倅たちにこういうの読んだらということで、随分前に買った本が手許にあったので、冒頭に写真を掲出しておきました。東大教養学部の先生方が、授業のほかに学生に読むことを推奨したい本を系統立てて紹介している本ですが、一般向けの読書ガイドとしてもすぐれているということで、新聞か何かの書評欄でも高評価だったものです。
この手の本にありがちな、「乾いた記述」が延々と続くという予想を見事に覆し、古典や名著を紹介しながら、執筆者の個性的な見解というか学者としての個人的良心を忌憚なく表現しているので、読み物としても興味深く読み進んでしまいます。
たとえば、「科学的なものの考え方」と題した項では、「自然科学の新しい常識と称するからには、読んだら文系の方でも私くらいの常識が備わるものでなくては困る」と生命環境科学の教授が書いています。
こうやって導入されてしまうと、推薦された本は全部読みたくなってしまいます。実にうまい。そして、いくつか紹介していくのですが、「大学一年生には、ちょっと小難しいかもしれないが、正しいことを学ぶというのはどういうことかを知ることができる」などと付言されてしまうと、これまたぐっときて、すぐにアマ〇ンをポチっとしてしまうのです。
H君には学生のうちに、是非とも良書を存分に読み漁ってもらいたいと思っています。
「自分がなにをやりたいか/何に向いているか」ということなどは、そのうちに自然と出てくるものです。先に果実を求めるよりも、まずもって豊かな土壌を作ることが先だと思います。良い土地からは、放っておいても良い芽がいくらでも出てきます。