新聞や経済誌などに掲載されている「年頭にあたり、大企業の経営トップに聞く」みたいな特集を斜め読みしてわかるのは、彼らがいま一番欲しい物は何かといえば、「自社におけるイノベーション」といったところでしょう。
なにせ、ずっと「欲しい」「手に入れたい」と切望、熱望しているのに、なかなか手に入らないし、手に入りそうな兆候すら感じられない。それは自分だけではなく、自分の先代社長も、先々代も欲しくて欲しくてたまらなかった。それなのに果せない、という渇望感、切迫感が滲み出ています。
たまさか、米中企業には大きく水をあけられています。
その差はあれよあれよという間にどんどん広がるばかりであって、もう背中も望遠鏡を使わないと望めないくらい遠い彼方へ離されてしまいました。
置いてけぼりを喰うといいますが、日本の名だたる大企業がみんな揃って置いてけぼりを喰わされているのですから、例によって非常に気持ちがいいともいえます。
置いてきぼりを喰って、気持ち悪くてやきもきしているのは本当の最上位のトップだけで、株主からの追及が及ばない副社長以下の並び大名には蛙の面に小便の如しで、心底では何とも思ってもいないでしょう。
この失われた20年で、日本企業の利益率は低下していますし、無論本業の売上も全然伸びていませんし、何よりも社員の給与が上がっていません。
日本企業の安月給は大問題なのに、国会議員はといえば、桜を見る会の資料廃棄に用いたシュレッダーを実況見分に行くのが大いなる成果と吹聴する始末です。
サンフランシスコ市が、「市民のうち、年収1400万円以下の市民を『低所得層』と認定した」とのニュースが昨年初冬に飛び込んできたので、ワイドショーなどもみんなでびっくりしていましたが、何もシリコンバレーを抱えるサンフランシスコだけではなくて、ニューヨークもボストンも円換算で980万円を境界線に設定して、それ以下の年収の市民を「低所得層」と分類して、各種の補助や救済の対象としているとのことです。
やはり、日本は既に後進国に落伍したとの認識を新たなせねばなりません。
先進国が加盟するということになっているOECD諸国の中でも、既に最下位グループを形成していることに目を覚ます時です。「豊かな国」とか「軍備も資源もないが、カネだけはある」などと卑下したり揶揄されていたのは既に遠い昔の事でありまして、いまや方角としては世界最貧国に向けて後退中なのです。
勤労者の給与の上がらない国で、次代を担う飯の種もなく、既に50年を経た古木から昔と同じ果実を1粒また1粒と相変わらず手作業で収穫しているのが、いまの日本です。
そんなことではこの古い樹木から近い将来もう実は成らないということくらい、果実を摘んでいる当の従業員が一番最初に気づいているのですが、彼らは摘むのが仕事ですから、新たに畑を開墾する権利も義務も資金も余裕も気概も持ち合わせてはいません。
なので、このままでは多分だめだろうな、とわかってる作業を相も変わらず黙々とといえば聞こえはいいですが、その実、喋る気力も失せてポンコツの古道具のように旧態依然の作業を今日もまた繰り返しているだけなのです。
果樹園の経営者もこれではだめだと薄々気づいてはいるようですが、経営者といっても果樹園商法で全国の投資家といって持ち上げた、要するに何もわからぬ個人にリンゴやミカンを定期的に送るからということで集めた資金で果樹園を開いて運営しているだけで、本当のオーナーはそうやって小口分散しているから自分がここのオーナーだと胸を張って言える、つまり現状より儲かるように自分の責任でやるんだという心境は誰も持ち合わせてはいないし、そうやってオーナーが多数で分散していて、1人1人は果樹のことにはからっきしの素人なので、彼らが何か言って来ても矛先をかわすのは経営者にとっては朝飯前に簡単なことです。
実際には、新しい樹は最近全然育っていないし、苗を植えても伸びて行かない、種をまいても芽すら出ないというありさまなのです。
昔はこの果樹園の従業員も、ちょっと表通りを歩けば肩で風を切っていた時代が長かったので、まさかこんなことになってしまうとは露ほども思っていなかったですし、その当時に果樹園の運営を任されていたOB連中は良い時に定年で辞めたせいもあって、今になって「そんなことでいいのか」などと先輩風を吹かせていろいろ言ってくるのですが、「あんたらが新しい樹を植えなかったから、こんなことになったんだ」と不平の1つも言いたいのは山々ですけれど、そもそもこうなった原因は明らかなのです。
社内の官僚化と図体の巨大化です。
新しいことをやるよりも現状維持。挑戦よりも既存事業の守りが優先。
いま例えば1万人の社員に曲がりなりにも給与を払っているし、売上規模も何兆円もあるのです。これに手を入れるなぞ絶対に許さんぞという勢力が権勢を振るっているのが現状でしょう。
もう何十年も同じ木から果実を収穫している、昔の花形事業部だけが保守的になっているのではありません。
中央の経営企画とか社長室とか、そのような人々が保守的に過ぎるのです。
彼らの常套句は、皆さん、あちらこちらで、聞き飽きるほど聞いていると思います。
よくも同じことを別の聴こえ方がするように、手を変え品を変え言い募れるものだと妙に感心します。
「何かあったらどうするのだ」
「誰が責任を取るのだ」
「もう少し様子を見たらどうか」
「他社の動向はちゃんと調べてあるのか」
「需要が顕在化してからでも遅くはないのではないか」 等々
どの会社でも、反対の専門家だけは人手不足を嘆く必要はありません。
前例のないことに賛成すると、自分の沽券に傷がつくとでも思っているのでしょう。
とにかく、自分の反論力を信じ切っています。
「反対するほうが賢いのだ」という確信があるので、アラ探しの眼だけが肥大化しています。深海魚のような奇観を呈していますが、なにせ太陽光線が殆どさし込まない水深の深い地底近くに潜っているので、外界のこととは無縁に「深海の論理」が横行しています。
かくてアラ探しと反対の鑑識眼だけが異常に発達した奇魚たちがうようよ棲息しているサンクチュアリーが形成されるに至ったのです。
これらの社員は、自らでは何ら価値を創造していません。つまり生産には従事していないのです。
ということは、生産階級ではなく搾取する側に属していることになります。
つまり、年貢の取り立てによって生活しているのですから、これは立派な役人だということになります。
こうなると、もはや民間企業とはいえません。
役人が支配しているなら役所であって、百歩譲ったところで三公社五現業がいいところでしょう。
国鉄、電電公社、専売公社、郵政、印刷、造幣、アルコール専売、国有林野のことをひとまとめにこういった時代がありました。
組織の存続が自己目的化している点で、すでに日本の大企業は往時の三公社と同じです。
国鉄全盛期にはストライキが多発して国民に迷惑をかけていましたが、いまの日本の自称民間企業は滅多なことではストなどうったりはしません。だからマシなのでは毛頭なくて、ストするような国鉄のほうが数段マシだったのです。
なぜなら、ストをすれば社会の厳しい目に晒されます。高度成長期の日本の新聞やテレビの報道姿勢は今よりも左翼寄りでしたが、彼らをもってしても国鉄のストを好意的に報じることは勿論ありませんでしたし、中立的にも扱わず、もっぱらそれによってどれだけの乗客や国民が迷惑を被っているかということを、スト解除直後の階段規制の長蛇の列やすし詰め電車の映像とともに伝えるのが風物詩でした。
なによりもストを打つとその期間は企業の売上がなくなりますから、経営陣にも大きな危機意識があって、とにかく短期間で収束させざるを得なかったわけです。
さらに、ストを実行する労働組合のほうにしてみても、スト期間中は当然に無給になるので、日頃の組合費から少しずつ集めた積立金の範囲内でしか労働争議を継続することは事実上できない状態であったことからも、労使ともに永遠に続くストをやっていることは不可能でした。
こう考えれば、ストは実に経済合理的なシステムだったという評価も可能となるのです。
それもこれも、現状の日本の大企業ときたら、ストをやっているという認識は皆無であって、まっとうな企業活動をしていると錯覚しているようですが、さきほども申しましたように生産活動に直接従事していない反対の専門家たちが会社の中心部で牛耳って富の再生産や新規付加価値の開発には身を挺して妨害しているにもかかわらず、ストのように数日で悔い改めてもとの職場に復帰するのではなく、いつまでも付加価値の新規生産提案へのアラ探しと握り潰しに血道を上げているのですから、三公社の筋金入りの労組幹部よりもたちが悪いとしかいえません。
ストを過去の遺物と馬鹿にしてはいけません。これならストのほうが数段マシなのです。
働くふりをしているだけで高給をはんでいるテクノクラートが跋扈しているのが、いまの日本の大企業です。
大企業のトップは、熾烈な出世競争を勝ち抜いてきただけあって、簡単な馬鹿ではありません。
なので、いくら外部から見てバカげたことをしているようにみえても、曲がりなりにも大企業のトップにいる人たちには危機感があります。
しかし、問題はその下が言うことを聞かないことでしょう。
トップは、イノベーションが欲しい、何よりも欲しい、欲しくて欲しくてたまらないのです。
しかし、そのすぐ下にいる上級幹部(取締役会メンバーならびに、その下の執行役員とか事業部長とかそういう層、さらにはそれに続く部長とかのミドルクラス)になると、イノベーションなど本音では欲しくもなんともないのです。
タダでくれるんだったら貰っときますけど、タダじゃないんでしょ?という感覚なのです。
そう、タダでは手に入らないようなイノベーションでなければ、将来10年20年にわたってその大きな図体をしょって立つことは不可能であるが故に大きな出費が必要なのですが。
タダ(=痛みの伴う改革ナシ)ではないのだったら、いまは要りません。少なくとも自分が定年退職してからにしてくれますか。
変なイノベーションといったって、簡単じゃないことくらい下手なミドルにも理解できます。社長のすぐ下の副社長とか常務取締役なんかをミドル呼ばわりしたらご本人様たちは怒るかもしれませんが、組織の責任者というものは、最後のThe Last Person とその1人手前に位置している人間では100と1の差があるとは、社長に任命された者が一様に実感している正直な感想です。
なので、ここではラストパーソン以外の上級幹部などはみんなミドルという分類で事足りてしまうのです。
評論の原点は分類にあります。
日本の大企業はミドル共和政ですから、君主のようにみえてもトップの力は実は弱いのが実情です。
多勢に無勢を常に強いられているのが日本大企業のトップなのだといえます。
シルバー民主主義などと称して、日本の政治は高齢者が支配しているといわれます。
政治家は本心では国家国民のことを考えれば高齢者の負担を増やす方向へ改革しなければならないことはわかっていても、目先の選挙のことを考えると、団塊の世代を含む高齢者の数が束になってかかってくると、ただでさえ数が少ないうえに投票率の読めない若年層よりも、とにかく投票率についてはある程度計算できる高齢者の票を失いたくないわけです。
猿は木から落ちても猿ですむのに、議員は選挙で落ちればただの人間になってしまい、議員特権どころか明日の生活費もままならないという哀れな稼業でしかない者に、国家と国民の重要事項の決定を委ねるというのも民主主義の悪いところです。
チャーチルではありませんが、民主主義は最悪の政治形態なのです。ただし、これまでのすべての政治形態を除けばの話という留保がつくのだそうですが。
そういう最悪の政治形態に委ねるほかない一般国民としては、シルバー民主主義が容易に方向転換できないと残念ながら知っているのですが、私企業という純粋に経済的な営利組織においては株主は1人1票ではなく株数に応じた投票権を有しているのだから、もっと経済合理的な差配に舵を切れるはずではないかとの疑問が生じます。
しかし、さきほど本当の経営トップはイノベーションを心底切望していると申しましたが、それも実は眉唾物と言わざるを得ない側面もまたあるのです。
それはどういうことかと申しますと、さいぜん述べたように大企業はミドル共和制ですから、トップを支えるテクノクラートたる経営企画室とか総務部とか社長室とかそういうスタッフ部門にはエリート集団が形成されています。
ミドル共和政でありますから、その選出母体の総意には抗しがたいのです。
母体の総意とは、「蛙がいつまでも茹だることなく、気持ち良く入浴できるように」ということであります。
「ぬるま湯よ!永遠なれ!」という一致した声に、逆らうことを潔しとしないのです。
なぜならば、逆らったところで、自己の私利私欲にとって何らメリットはないからです。
トップ自体がこのテクノクラート出身で、その出身母体のことはよくよく身に染みて理解していますから、部下たる後輩のことが可愛いし、理解のある上司として人気を保持したいという欲求にかられることも相俟って、急激な組織変革が必須と頭で理解していても、いざ意思決定の段になると丸っこい方針にすげ替えられてしまうのです。
大企業のスタッフ部門のエリートたちの総意とは、何かを0→1で始めることでもなければ、何か不要なものや組織を潰すことでもなく、いまあるものを潰させないように、できる限り現状維持を継続することだからです。
ここで、君主が本当に改革というか飛躍的な変革を希求するのであるならば、それに沿った人材を周囲に固めれば済む話ではないかとの疑問が湧いてくる向きもあるでしょう。
しかしそれは巨大組織の人心掌握を知らぬ物言いというべきであって、君主自体が昔のイングランドのように北欧から突然転任してきたという部外者ではなく、君主自身が前任者のお側用人出身という出自ですので、どのような者たちの集団がいちばん君主にとって安全か、はたまた危険なのかはよく知っているのであります。
飛躍的な改革だけをやれば済むのであれば、そのような飛び道具のような人材を、それこそ旧・国鉄改革3人組といわれ、後の分割民営化で東・西・東海の本州3中核鉄道会社の社長に納まった3人のような人材を充てればすむことかもしれません。
しかし、国鉄は何年何月から一旦事業を停止して新設の民営会社に移管しますということが決まっていたから、母体の国鉄自体は後は野となれ山となれでどうなっても一向構うことがなかったからこそ、くだんの3人組も思い切った手を打てたのであって、普通の大企業の場合にはどんなに大きな改革だか変革だかを敢行したとしても、それでその組織を脱ぎ棄てて新しい旅に出るなどという勝手なことなどできるわけもなく、日常の業務は当然に普段通り元の鞘で継続しなければならないのですから、組織を守る意識はどこかで大きく残らざるを得ないわけです。
それでもなお、組織をぶっ壊すような本気で改革をするような、しかも力量の秀でた優秀なミドルを側近として抜擢などしたらどうなるかといえば、今度は自分の寝首をかかれかねないし、そんな手荒なことはされないまでも、自分が引退したあとに彼らの世代が権力を掌握した暁には自分のような用済みの前世代の旧経営陣など瞬時に一掃されるであろうことは、相当鈍感な人であっても容易に見当がつくことといわねばなりません。
経営トップが引退して何が楽しいと言って、責任がないのに肩書があり、仕事がないのに大きな個室を占め、会いたくない者は秘書が遮断してくれるし、専用運転手に命じれば黒塗乗用車で公用の体裁をとって堂々と私用に赴くことができるという、なにかにつけて王侯貴族のような振る舞いができるだけではなく、なんといっても、現役時代のような最高度の精神的なプレッシャーが微塵もないのに多額の報酬にありつけることでしょう。
もっとも、受け取っているご本人たちは、本来現役時代に貰うはずだった「(自分が思うところの)適正な報酬」の差額分の後払いを受け取っているに過ぎぬと口を揃えるのが常ですが、一般社会の常識の届かぬ深海ではそのような独特の生態系(エコシステム)が形成されていることは、地上の住人たる我々には想像もつかない世界のことです。
このような、この世のものとは思えぬ非常識な厚遇をみすみす無にする可能性の高い人事配置を自ら行う者があるほど、日本の大企業社会において高潔性は流布してはいないのです。
つまり、極端な改革派は政権の中心部には任用されることはありません。
せいぜいのところ、守旧派の中の改革寄りといったところです。政治でいえば、中道リベラル程度の位置づけですから、一朝有事となれば武器を取って革命を起こすような意思も気概も保持してはいないのです。
そんなテクノクラートも、安全なところで話す分においては、当社には大きな改革が必要で、その道筋はこうこう、このようにすべきで、進め方はこうするのが望ましい、くらいの小賢しい改革論をぶちまけるくらいのことは朝飯前にできるほどの思考回路は持ち合わせていますから、騙される者も少なくはないのですが、心底にはそのようなことは自己の定年後に誰かがやればいいことであって、自分の在任期間中に何か大きな変革などという大それたことが発生するような兆候があれば、全力でこれを阻止するかその萌芽の小さいうちに一生懸命踏み潰してしまうに違いないのであります。