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時差出勤の落とし穴

 

ここのところのコロナウィルスの影響で、時差出勤が見直されています。

時差出勤という言葉自体は、もう昭和のバブル前、高度成長期の終盤くらいから出ていた用語です。

 

その頃は、通勤ラッシュを緩和しようという意図で語られていたのが中心でした。ご他聞に漏れず、掛け声倒れに終わって既に40年が経過しようとしていた矢先に、この感染騒ぎで急遽再登場となりました。

 

今日の日経朝刊などは、先週の通勤電車の混雑率が2割緩和されたことを報じるなかで、「最近テレワークを始めた30代女性」の声として、「仕事に支障はない。今から思えば、定時出社の意味は何だったのか」などと伝えています。

 

まったくもって、おっしゃる通りです。

 

仕事の中身もバラバラなのに、何か知らないけど全員という全員が、まったく1秒も違わずに同じ時刻に揃ってから始業するということが、何の疑いもなくなのか、変だとは思いながらなのかはともかくとして、延々と続けられてきました。

 

それを改めようという動きは、たとえばフレックスタイムとか、例によってこういうときには必ず和製英語になるのが傑作なのですが、いやまてよ、和製英語ではなくて本当の英語なのかも知れませんが、プレミアムフライデーとかお上の旗振りに伴って発せられるキャッチフレーズは、なぜか決まって和製英語の響きを帯びているので、脊髄反射的にそう思ってしまったのですが、とにかくそういう動きもないことはありませんでした。

 

ただ、そのような動きは、あくまでも「動き」であって、「動き」というのはごく一部でごそごそ音がしている程度のことを指すのが一般的なとらえ方で、世の大勢を占めるようになると「動き」などという蔑称ではなく、至極当然の、当たり前の作法に昇格するや誰も言及しなくなるという地位を得るのが常です。

 

定時出社というのは、戦後一貫する労働慣行のように思えますが、実は戦時体制そのものといえます。資源のない国が大国と戦争をするのですから、挙国一致でまだ若かった国民が最低でも一致団結するしか勝ち目の糸口はなかったという窮余の策が、戦争が終わっても止まらずに続いているだけです。

 

経済白書がもはや戦後ではないと高らかに宣言したのが1956年でしたが、そこから既に64年もたっているのに、あらゆる社会慣行は戦後どころか戦中のままです。

 

無観客で強行すると記者発表した高校野球の甲子園大会など、開会式の入場行進はいまだに陸軍兵のように丸坊主刈りに軍隊式の行進をさせています。

 

軍事教練のために学校にやってきた軍人に鉄拳制裁付きで教え込まれた過去がよほど悔しかったのでしょう。高野連の老害たちは、自分たちが何度もやり直しをさせられたことを、そのままあろうことか現代の高校球児に強要することで、自身の復讐を遂げたのです。

 

例の開会式にも、「予行演習」というセレモニーがわざわざ1日取ってあります。以前、その光景をテレビのニュースで見たことがありましたが、出場校の全体行進を「観閲」したご老人の偉い人が、朝礼台の上からマイクで、「元気が足りない。もっと大きく腕を振って脚を挙げて行進しなさい」などと命令口調で演説しているのを見て、吐き気を催しました。

 

年功序列を重視する古いコンテクストの組織である高野連では、戦中派の老人たちが退いたとはいえ、後任者も先輩を否定する契機を見いだせないまま、2019年まで軍事教練が続いているのです。これが国際的大失態を演じ続けているのだと気が付くのは、いったいいつになるのでしょうか?

 

腕と腿(もも)をほぼ水平まで高く上げて、一糸乱れぬ行進を全参加者に強制することが変態と思わないのは、いまや世界200か国のなかでも、甲子園のほかには中国と北朝鮮の軍隊だけではないのかという疑問すら抱かないところに、根腐れ型の岩盤の頑強さを物語ります。

 

だから、この際、全員が同じ時刻から仕事を始める定時出社を見直そうという機運が出ているのは、実はよいことなのではありませんかって?

 

まあ、反対はしません。

特に、甲子園大会の入場行進をいっそのことやめてしまうのであれば、歓迎します。

 

しかし、話をウィルス騒ぎから定時出社否定論というところへ持っていくというのは、流れ的にあまりにもありふれていて、面白くも何ともありません。

 

実は、定時に一律に出社することを社員に義務付けるのには、深い事情があるのです。

これは机上論ではないので、会社を経営した者でなければわかりません。

 

世の中には、非常に優秀で、セルフモチベーションの塊で、とやかく指示命令をしなくても、自律的に、つまり自己をみずから律して、所定の成果を遅滞なく生み出し続ける、という従業員ばかりではありません。

 

それどころか、そんな従業員は千3つの確率でしか発生せず、普通の一般企業の管理者からすればおとぎ話の世界といえます。

 

蟻の群れを観察したことから得られたと言われている、有名な2-6-2の法則があります。

このうち、中間部の6に該当する従業員は、「いえばわかる」という層です。9時出社といえば、9時前には始業の準備を済ませていることが、絶対とは言えなくても、まあできます。

 

しかし、うしろのほうの2に該当する者たちは、ちょっと目を離すと遅刻したり、会社に到着するのがギリギリになって、タイムカードは間に合っても始業時刻には仕事を始められるような状態には全然なっていないという状態です。

 

ちょっとでも交通機関が遅れると、当然ですが遅刻です。駅で遅延証明をもらうのに、毎月何度も並んでいるのはこういう層です。

 

この層のうち、症状のひどい部類は、「言っても聞かない」「聞いても実行しない」という特徴があります。管理職は、そのような従業員が今日もちゃんと時刻までに出社しているかどうかを確認するという作業を毎日しています。

 

馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。後ろ向きで非生産的なことこの上ないのですが、超大手や優良企業でもない、ごく普通の企業で、ゆるい社風のところでは、残念ながらこれが実情です。

 

この風土で「定時撤廃」「いつ出社しても、仕事さえすれば結構」などとやり始めたら、大変です。

 

そもそも「時間を守る」という極めて客観的な指標すら守れない人間が、「成果を出す」などという曖昧な約束を果たせるわけがありません。

 

果したかどうかの判定に、上司が忙殺されてしまい、仕事がまったく進みません。

それを部下全員について、テンデンバラバラに管理せねばならないのです。

 

従来は、2-6-2の6については、一応、大丈夫なようだったものが、時間という縛りがなくなったことで、易(やす)きに流れるのは不可避です。こうして、言って聞かせなければならない対象者が急増します。

 

ならば、どうすればいいのか?

話は、実は簡単です。

 

業務成果による降格や解雇を可能にすれば、話は一気に進みます。

現状では「不利益変更」や「解雇三原則」を振りかざされるリスクがあるので、その宝刀は抜けません。抜けないことが見透かされているので、日本の産業社会の「すくみ」の多くはここが元凶になっています。

 

定時出社の撤廃は、雇用の慣行的規制の撤廃とセットでなければ実効性は乏しいでしょう。

逆に、戦後の社会主義的雇用慣行が撤廃されるのであれば、ピタゴラスイッチ的にいろいろな桎梏が次々に外れていって、イノベーティブな萌芽も期待できるかもしれません。

 

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※2020/4/16追記 上記文章は2020年3月8日時点で執筆・掲載しました。翌月の4月7日に政府から発令された緊急事態宣言の内容を否定するものではありません。