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代議制という病理

 

いま進行中のコロナ対策について、この国には多くの疑問や憤懣が鬱積しています。

既に、SNSを含む多種多様なメディアで、国民各層が積極的に指摘や打開策の提言をしているので、ここで屋上屋を架す愚には及ばないことにします。

 

ただ、「中小企業経営者に夢と誇りが満ちあふれている社会の再興」という本欄の創設の理念からして、本題の前に商売の本質について指摘しておきます。

 

企業の信用は、次のような「辛く」「はかない」宿命にあります。

 

①日々の小さい行為の積み重ねでしか醸成されない

②形成に時間がかかる

③失う時には一瞬

 

①ですが、提供している商品やサービスの品質、顧客の満足度、嘘をつかない体質といった組織的な側面から、経営者や所属員の日頃からの行動、言動、立ち居振る舞い、などという個人的なことまで、すべてが評価の対象となっています。

 

誰が「評価」するか?

それは、社会です。世間といってもいいですが、要するに「誰」と特定できない、茫漠たる存在が評価者であるという点が重要です。

 

誰かわからない存在に観察されている、この「得体のしれない感」が、緊張感につながる人と、開放感に行ってしまう人との分かれ道でもあります。

 

②は、①に挙げたような行動の1つ1つは非常に小さいことですし、また、あちこちで分散して観察されるので、それらが集約されて、「あの会社は、信用できる」という評価が形成されるには、気の遠くなるような長い時間がかかります。

 

誰か1人が言い出すだけではだめで、賛同者が増えていって、社会全体が合意しなければならないのです。しかも、「どうすれば合意してくれるのか」という明確な基準など存在しません。

 

わからない目標値に向かって、日々努力するしかないのです。

しかも、それがサッカーやバスケットといった時間制スポーツのように、「これだけの時間が経過したら判定します」という目標期限がないのです。

 

「いつ信用してくれるのですか?」という問いには、

「お前さんのことを信用できると思ったときだよ」という答えしかないのです。

 

③でいいたいのは、このようにして血の滲むような努力を積み重ねて、やっとのことで獲得した信用ですが、失う時にはほんの一瞬だということです。

 

築城3年、落城3日という言葉もありますが、それは物理的なお城という建物なので、3年で建設できてしまうのかもしれませんが、企業の場合にはもっと長い期間が必要です。しかし、失うのは3日どころか、1日もしくは決済日なら1秒遅れただけで、全部パーになります。

 

築城10年、落城1秒ということです。

 

昔、交通標語に「注意1秒、けが一生」というのがありました。決済が1秒遅いだけで、一生を棒に振るのが企業経営者です。

 

いま、政府がやっている経済対策なのか公衆衛生対策なのかわかりませんが(二方面作戦になっている時点で失政なのですが、ここではそのことに深入りしません)、これが遅々として進まないことに企業経営者、とくに「不要不急」の現預金を不必要に溜め込むしか能のなかった大企業以外の、通常のキャッシュフロー経営をしている企業の経営者には、毎日が地獄の想いだと拝察します。

 

「毎月の決済期日をキチンと乗り切る」ことが、あらゆる経営行為の中で初歩中の初歩、信用形成における最大にして最低線の基本といえます。

 

従業員の給与、買掛金の支払、銀行への返済。。。

このような毎月めぐってくる基礎的な支払を、当然のように1日も遅延することなく、毎月毎月連続していくことが、企業経営のもっとも基礎的な営為です。

 

これができなければ、お客からどんなに褒められようと、売ってる商品が通販サイトのレビューで高評価を獲得しようと、はたまた時価総額なるものが上昇しようと、何の意味もありません。

これっぽちも、ありません。

 

そんなことは、このようにダラダラと百万言を要するようなことではなく、殆どの事業者、経営者は先刻承知のことです。

 

唯一、知らないのが今の政治です。

「政治」と書いたのは、宰相、並び大名、取り巻き、行政官なども含めて総称するためです。

 

当然ですが、野党議員も入ります。

野党は「さんざん言っているのに、政府が聞かない」と言っているようですが、同じ穴の狢(むじな)とはこのことです。

 

言っても聞いてくれないのは、言ってるほうが相手をされていないというだけのことです。

要するに、不要な存在だったということが図らずも証明されただけです。

 

政治腐敗というと、贈収賄とか金権政治というターミノロジーが付随してきたのですが、今回のコロナ迷走を見ると、そんな枝葉が腐っているのではなくて、根幹である代議制民主主義という制度自体の欠陥が顕在化したとみなければ、また繰り返されることになります。

 

コロセウムでみんなが集まって議論していたのは「古い制度」だ、と決めつけられてから何世紀もたちました。

 

都市国家とは違って、現代の国家では国民全員が集まって討議することは不可能だと。

それって、本当でしょうか?

 

コロナ禍でわかったのは、たとえば会社に通勤するという行為なども、特に間接部門のホワイトカラー職においては、実はそんなに意味のあることではなかったということです。

 

ホワイトカラーにリモートワークやテレビ会議が代替できるのであれば、議員にも同じことがあてはまります。

 

(余談ですが、議員の数が多すぎます。こんな小さい国で2院制でも多すぎるのに、衆議院465人、参議員248人、計713人も国会議員がいます。出所:総務省ホームページ「選挙・政治資金」

 

インターネットの出現以前に考えられた社会制度が、既に時代遅れになっていることくらい小学生でもわかります。社会科の時間に代議制を学習したときに、「住民(国民)がみんなで集まるのは難しいから議員が誕生した」と習ったものでしたが、いま有権者の大多数がスマホを持っている時代に、小学生を納得させる先生方のご苦労が偲ばれてしまいます。

 

議員定数の大幅削減は、待ったなしです。

 

それを迅速に、かつ大胆に進めるには、議員からその権限を取り上げるなければなりません。「議員定数を議員に決めさせるな」ということです。

 

数年前に国会議員の定数を増員させたのは、ほかならぬこの国の国会議員たちです。

人口減少国家で、選挙区割りの調整に手間取り、あろうことか定数を増加させることで決着した経緯がありました。

 

泥棒に金庫の鍵の設計を委ねるのと同じ愚を、いま我々国民がやっているのです。

国会に限らず、議員に議員定数を決めさせるのは、構造的に無理があります。

 

議員定数を減らせというと、当の議員たちは与野党一致団結して反対します。

理由は、有権者の「多様な」意見をすくいあげることができなくなる、というものです。

 

それは、「議員数が多い方が優れている」という理由には、全くなりません。

次のように簡単に論破できます。

 

仮に、「議員数が多い方が多様な国民の意見を拾いやすい」とします。

すると、「議員数が100人よりも500人のほうがよい」ことになり、「議員数1万人よりも100万人のほうがよい」ことになります。当然、「100万人よりも1億人のほうがよい」ということになります。

 

こうして、国民の「多様な」意見を拾うためには、国民全員が議員になったほうがよいことになります。

 

よって、代議制は否定されてしまうのです。

それは、当初の「議員が多い方がよい」という前提が間違っていたからです。

 

国会議員が700人以上いても、遅々として反映されていない「多様な声」はいくらでもあります。

その最もひどい事例が、いま進行中のコロナ対策です。

 

中小事業者、個人事業者、フリーランスなどの声が全然届かないからこそ、他の先進国で既に支給されている給付金が、未だ審議にも入っていない。支給は早くて5月中、遅ければ6月中旬などと、気の遠くなるような未来の話になっています。

 

日本中の事業経営者が、長年にわたり、辛く厳しい努力を続けてきた成果である各自の「信用」を、こうした愚昧なる政治によって、一瞬のうちに喪失してしまっているのです。しかも、日々刻々と喪失者が増えています。

 

落ち度がないのに金融事故扱いされた事業者は、旧弊を墨守するこの国の金融ギルドには2度と復権させてもらえなくなります。

 

そのことが招来する産業連関的なインパクトは、財務当局の懸念する財政支出の何倍もの重力となってのしかかり、我が国の経済社会は今後長期にわたって辛酸を舐め続けることになるでしょう。