GAFAMで考える公務員「改革」

先日、ある会合で人事院総裁にお目にかかりました。

 

自分は10年ほど前に、何かと話題の企業活性化支援会社にジョインしていた時期がありました。川本さんも応援者の立場で関与されていたみたいで、そのときお話しする機会がありました。

 

先日の再会では肩書が非常に堅苦しいものになっていたのですが、フランクで柔和、それでいて本音で勝負という人柄は以前とまったく変わっていませんでした。

 

下々の住人がその地位名称から想像するような権威主義とは、対極の人間性を放っておられました。

 

そんな人事院新総裁が、公務員の働き方改革に取り組んでいます。新聞記事のどこまでが事実なのか不明なために、記事の範囲でしか論評できないという限界を承知で書き散らします。

 

有能、優秀な国家公務員上級職の若手官僚が次々に退職している現状をなんとかしたいという点では、関係者の思いはそんなにずれてはいないみたいです。

 

国会の答弁資料を作成するのに恒常的に残業(多くは午前様)を強いられ、国家の将来設計の一翼を担うという星雲の志とは無縁の、やり甲斐の感じられない雑務ばかりの職場に見切りをつける若者が続出しているーーという事実認識も、用いる表現に多少の差はあっても、概ねそんなところに収まっているようです。

 

ではどうすればいいのか、ということなんですが。

公務員をどうするのかというテーマは、公務員だけを論じても解決しないことくらい、誰でもわかることです。

 

役人は政治家に弱い。政治家は国民に弱い。産業界は役人に弱い。

きれいに決まらず、若干ねじれた3すくみの構図ですが、食物連鎖で上位に位置している政治家を変えない限り、役人の働き方など変わりません。

 

ところが、役人の分際で政治に口を出すとは怪しからん!というのが、政治家の発想なんでしょうね。

政治家は自分のことを「非常に偉い」と思っています。

 

「国民の皆様ために、身を粉にして働きます」と言っているのは僅かな選挙期間中だけのリップサービスであって、最初から最後までそんな殊勝なことは本人自身が微塵も思ってはいません。

 

その証拠が政治家による役人いじめです。

 

国会中継というおぞましいテレビ番組があります。

本会議は与野党とも原稿を一字一句棒読みするセレモニーで、面白くもなんともありません。他方、予算委員会は、野党が政府を吊るし上げるパフォーマンスが、視聴する者にとめどない絶望感を与えます。

 

どちらにしても、政治の貧困を再確認するだけの徒労感が漏れなく付いてくるので、良識ある国民の多くはそのようなマイナスの効用を得られる視聴行為を敬遠することになります。

 

政治家の質が低いのは、マスコミも含めて国民の質(民度)の反映ですから、それ以上何を言っても「自分の母さん出べそ」でしかありません。

 

そんなことはわかっていても、問い質したくなります。

 

与野党を問わず政治家がなんであんなに横柄で、役人を見下す態度に終始するのか。しかも、日本全国の地方議員まで!

 

これを政権政党の本部職員として、長年にわたり全国の国政選挙の陣頭指揮にあたってきた専門家に聞いたことがあります。

 

その人は、選挙業界では知らぬ者はいないという有名人で、選挙にまつわる表も裏も知り尽くした人物ですが、こちらは学生の頃からよく知っているので、本音で答えてもらえました。

 

「政治家が偉そうにするって、選挙で選ばれてるんだから当たり前だろ。選挙で有権者に自分の名前を書いてもらうのは大変なことだ。有権者1人1人が、自分の手をつかって候補者の名前を書くんだぞ。それを何万人にやらせるんだから」

 

ふ~ん、そうですか。

別世界の意見も聞いてみないとわからないものですね。。。

 

まあ、政治家の選挙で、投票用紙が空白になっていて、そこに有権者が候補者の名前を1から自筆で記入するようになっているのは、世界広しといえどもほとんど日本だけ級の超絶稀少なしきたりです。

 

アメリカ合衆国の白人ですら、筆記文盲率は日本の何倍もあるくらいなので、世界中の国々で投票用紙といえば、あらかじめ印刷してある候補者名の上(左)の□に✓もしくはXをつけるだけです。

 

投票用紙に、候補者の顔写真が印刷されている国もあります。

これなら、文字の読めない有権者でも簡単に投票できます。

 

白い紙に文字を書かせるなんて、文盲の投票を排除することと同義です。

近代「民主主義」の標榜する「普通選挙」にとっては、とんでもない暴挙ということになります。

 

そんなガラパゴス的な「選挙の洗礼」を通過した議員たちが、ふんぞり返って官僚を奴隷のように扱い、それがNHKで全国中継されても、恥じ入るどころか逆に悦に入るという域に達しているのですから、病膏肓に入って付ける薬もない惨状です。

 

中央官庁の局長や審議官といえば、官僚機構の大幹部です。その大幹部や最高位の事務次官までもが、いかにも頭の悪そうなヒラ議員にペコペコ平身低頭したり、論旨薄弱な罵声を浴びせられる姿が全国のお茶の間に実況中継されるのを見たら、まともな若手官僚が人生再出発のできるうちに逃げ出すのはむしろ当然でしょう。

 

さらに悪いのは、「野党合同ヒアリング」です。予算委員会で言い足りなかった野党が集まって、関係省庁の幹部を傍聴席のない別室で吊るし上げる会議です。

 

問題は、政治家に対峙すべき政府閣僚が不在で、野党議員の相手を官僚にやらせている政府与党の発想と行動です。

 

長らく盲腸と揶揄されてきた政務次官の代りとして、副大臣や政務官などという吹出物のような政治任用を粗製乱造しておきながら、その誰1人として参加せずに逃避して、専ら官僚に丸投げです。

 

野党議員たちは、幹部官僚に対して例によって横柄で不遜な態度と言動で「追及」して悦に入っています。

 

しかし、官僚は公僕(civil servants)です。

つまり、国民の使用人なのです。

ここのところを忘れてもらっては困ります。

 

「誰に断ってウチの者をオイコラ呼ばわりするのだ!」と国民は怒らないといけません。

 

・・・と議員を責めてみたのですけれど、だからといって何ら解決策の萌芽にもなっていません。

 

結局は、優秀な学生の就職先として国家の官僚という職業があったという後進国型社会の終焉と理解するほうが手っ取り早いと思います。

 

「欧米先進国」に「追いつき、追い越せ」の時代には、お役人が考えて民間を従属させるという系統図も意味があったのかもしれませんが、もう時代が違います。

 

仮に政治家が官僚に対する奴隷扱いをやめたとしても、いかに優秀な官僚が頭をひねったところで、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズやイーロン・マスクを生み出すことはできません。

 

アメリカで官僚がイキイキと創造的な仕事をしていたから、GAFAMが誕生したのでもありません。

 

官僚に期待するのは、もういいんじゃないでしょうか。