こちらは、フィリップ・コトラーの書いたマーケティングの教科書です。不朽の名著として世界中に普及している本で、これは1989年に英国で買った第6版です(最新は16版のようです)。
著者コトラーには、「近代マーケティングの父」などというタグが添えられることが多くなりました。
自分の世代が普通に勉強していた頃にはなかった称号です。つまり、逆説的にはなりますが、コトラー流マーケティングは過去のものとなったという時代感覚なんだと思います。
改めて復習するまでもありませんが、コトラーの指弾した古いマーケティングとは、「製品ありきの販売作戦」でした。これをMarketing 1.0 とすると、同 2.0 においては、「顧客ありき」に転換しました。とにかく、買い手の考えていることを先に調べましょうということです。
T型フォードのような絶対的な製品の時代には、Product Out で通用したのですが、競争相手も拮抗してくると、まづもって市場に飛び込んでいってお客さんの声を集めましょうということになって、Market In というブームになりました。
そこでは、市場を1つではなく細分化しましょうということになって、セグメントという考え方が主流になりました。先行企業と同じセグメントでは弱者は負けますので、常識に固執せず斬新な切り口で市場を切り分けることも注目されました。
ここから、マーケティングの潮流は若干枝分かれしていきます。
およそ1990年代前半ですが、金型部品商社のミスミが創業経営者の田口さんの精緻な理論によって急成長したことを受けて、「市場の声を聞くのは、もう古い」という考え方が登場しました。
遅れた産業では、きちんとした市場が形成されていないか、あっても機能していない。そういう産業を見つけて、ちゃんと機能する市場メカニズムを持ち込んでしまえば、雪崩を打って市場を席捲できる、という発想です。
Market In はもう終わった。次は、Market Out だ。
こういう巧い表現も周到に用意されていて、同社の実績を見ても「なるほど」と思わせるものがありました。
他方で、BCGの米国本社はこの時期に新しい経営コンセプトとして、One to One Marketing という概念を世界統一で提唱しました。
別名を Segment of One ともいって、要するに、市場をセグメントという集団に分けても粗すぎる、もっと小さな違いに着目していけば、究極はお客1人1人を別の市場だというくらいに考えましょうという発想です。
その後、商用インターネットが登場し、個人別データの取得が可能となって、この流れは決定的となりました。いまからすれば、「そんなの当たり前じゃないか!」と思うのですが、インターネットもSNSもない頃に既に提唱されていた概念で、世の中のほうが追い付いて来たともいえます。
コトラーを含めた世界中のマーケティング界の主流派は、学者ですから例によって後付けで、現在のDXやSDGsをからめて新規性のある概念を言い出そうとしているようです。
さて、ここでハタと考えるわけです。
Marketeing 3.0 でも 4.0 でも結構ですけれど、なにかしっくり来ないのです。
それは、「いかに競争に打ち勝つか」「いかに市場で優位を勝ち取るか」という「俺が俺が」の意図しか見えないからです。
利己的、独善的といってもいいでしょう。
地球環境ですら、「それに配慮した商品のほうが顧客に受ける、だから企業は取り組みなさい」という姿勢が見え隠れします。もとい、露骨に見えています。
これはなにも、マーケティングだけが悪いのではなくて、経営学そのものが、自社優先主義をデフォルトの大前提に置いています。
そんなことを言ったら、近代経済学における企業行動も、収益の最大化をめざして行動することを暗黙どころか公然たる前提としています。
つまり、近代資本主義社会において疑いもなく当然視されていた自社収益優先主義は、いつまで命脈を保てるのかという検証の時期に入っているのです。
マンションでいえば、新築後30年目の大規模修繕を迎えたといってもいいのかもしれません。いや、そんな甘いものではありません。
大規模修繕は「修繕」であって「補修」が主体ですが、マーケティング概念のほうは少々の「修正」では持たないところまで来ています。
すなわち、既に発射済のロケットを軌道修正するのではなくて、まったく新しいロケットを打ち上げ直す、そして古い機体は廃棄するくらいの荒療治が必要なところまできているのではないかと考えます。
それは、マーケティングやその基盤となる企業経営そのものの存在目的に迫るものです。
もっとも、だからといって企業だけに転換を迫るのは均衡を欠くものです。
マーケティングが企業と市場との関係性を問う領域だとすれば、相手方である市場の側にも責任の半分はあると見なくてはなりません。
企業の自社優先主義が独善的で幼稚であるとするなら、市場を構成する主体の1つであり大きな存在である消費者に対しても、その発想と行動の独善性や幼稚性を指摘せねばなりません。
バングラデシュでグラミン銀行を設立したムハマンド・ユヌス(のちにノーベル平和賞受賞)は、マイクロ・ファイナンスとともに当時極めて斬新なマーケティング手法を開発して実用化しました。
ユヌスがバングラデシュでやっていた乳酸菌食品の販売事業においては、提携先の多国籍企業ダノン社が他国で販売している製品を扱ったのですが、パッケージは他国で流通している同社製品の通常の外観とは異なり、消費者に過度な好奇心を与えず、目立つ絵柄や色合いを使わないことが最初から意識されたと彼の著書で読みました。
それを読んだのはもう随分と昔のことでしたが、これに非常に感銘を受けたことをいま改めて思い起こします。
派手なパッケージを競い、いかに店頭で競合他社を出し抜くかに血道を上げ、そのために余分なコストをかけるのは当然だと、誰も疑っていない根幹部分から着手し、実際に超大手企業の行動を変えさせたわけです。
本稿を書くにあたり、検索していたら一般社団法人ユヌス・ジャパンという団体があるのを初めて知りました。名誉顧問が経営学界の大御所・野中郁次郎となっているところを見ると、由緒正しい組織のようです。
そこに、ユヌスの提唱した項目が掲出されているので、いま見てみました。
ユヌスの事績は、のちにソーシャル・ビジネス(社会事業、社会企業)と言われるようになり、社会起業家という人たちが多く後に続くことになったのは周知のことですが、この7項目はそうした文脈に合致します。
実は、これは少々問題があります。
社会起業家的なコンテキストに合致してしまうことは、日夜激烈な競争を繰り広げている資本主義社会の渦中にあるプレーヤーたちに、これは別世界のことだと宣言し、またそのように理解させることになるからです。
それだけでなく、買い手である一般消費者にとっても、「自分たちに買ってほしければ企業は興味関心を惹く努力をすべきだ」という時代がかった古い認識を肯定してしまうことになる点で、罪深いというべきです。
もう、そういう相互関係性は古いよということを1980年代から提唱し、実際の行動に移して社会的・経済的な実績を上げ、2006年のノーベル賞で世界が知ることになった新概念が、地球全体に普遍的に該当するもの「ではない」こととして固定されてしまうことになっているのは、誠に残念です。
本来ならば、「Marketing 5.0 」として全世界がその具体化に向けて取り組んでいく価値のある概念なのですが。
かといって、地球環境保護などを絶対視し、すべての経済活動は即時かつ逆方向へ転換すべきであるとの社会煽動、国際情宣活動を展開する某少女などの一派が発散している偏執性は、常識的な企業経営者と一般消費者を却ってドン引きさせています。
自社収益極大化を目的とした独善的マーケティングは、「古い」。
地球環境活動家は、「怖い」。
ここにおいて、両者を超克し、企業収益と地球環境の両立を最高度の目的とする新しいマーケティングの考え方が求められるのです。
この Marketing 6.0 は、もちろん容易なことでは解法が得られないでしょう。
しかし、容易ではないからと言って、問題の設定自体から逃避する必要はありません。
耳学問ですが、フェルマーの最終定理とかいう難問は、設定されてから解が出るのに300年以上かかったそうです。
人類のあり方にかかわる大問題なのですから、何も拙速に優等生の模範解答らしきものを求める必要はありません。
しかし、問題を設定することは、いますぐにでも必要なのではないでしょうか。
つまり、こんなマーケティングや、こんな経営学ではダメなのではないか?と疑うことです。そして、この難問に立ち向かう解法はどこにあるかを考え続けることです。
問題が大きいほど、すぐに「企業は」とか「政府は」などと他人事として評論したくなるのが人情ですが、これは自分たち地球人1人1人に突き付けられた難題です。
どうやって解けばいいのだろうと、最近そればかり考えるようになりました。