· 

日本再生の処方箋(ラディカル版)

 

「失われた10年」は「20年」になり、そして、大方の予想通り、「30年」になりました。

 

ところで、「失われた30年」というときに、何がなくなったというのでしょうか?

 

日本の経済成長なのか、マクロの国民所得のことをいっているのか、それとも国民1人1人の懐具合なのか、はたまた漠然とした「豊かさ」を指しているのでしょうか。

 

そのどれなのかを確定する必要はありません。なぜならば、こうした議論で「失われた」とされるものは、ことごとく昭和の価値観だからです。

 

いまさらノスタルジーに浸っても、なんの意味もありません。

もう少し建設的な議論が求められます。

 

この期に及んでまたしても「欧米」に対して、「追いつき、追い越せ」をしようというのであれば、発想が貧困です。

 

自分たちの順位が後退したので、再度上位を目指して発奮しろと迫るのは時代錯誤というしかありません。

21世紀も22年目になっているというのに、前世紀の発想にいつまで縛られているのでしょうか。

 

明治開闢以来、いつも後追いをしていたから、どこかの国を目標にして「追いかける」発想と行動が、既に国民性の域に達しています。

 

しかし、資源と武力のない国が消耗戦に持ち込まれたら、勝利できる糸口がないことは80年前に実証済ではありませんか。

 

昭和の末期に国際経済において先頭に立ったかに見えたのは、一瞬の偶然でした。

その証拠に、持続性も再現性もないではありませんか。

 

持続も再現もしない現象を、一般には偶然と呼ぶのです。

偶然の再発を期待する姿勢は、守株の故事として古来軽蔑されてきました。

 

経済的ないわゆる「勝ち組」に分類されたらしい米欧や中国ですら、今回のロシアの蛮行を止めることはできませんでした。

 

そんな小物を追いかけてどうするというのですか。

仮に追いついたとしても、それが我国の目標とする国家像なのでしょうか。

 

人類共通のために、あるいは動植物を含めた生物全般のために、さらにもっと広く地球のために、絶対善を追うのが日本だというように、世界の規範を再定義する発想に転換すべきです。

 

勝負はルールを作る者が勝つに決まっています。

自分の勝ちやすいように、負けにくいように、ルールを1から作るからです。

 

そのルールは、当然のことですが、ゲームを創始する者が作ります。

日本はいつも既存のゲームに参戦して、少しばかり勝利を重ねると諸外国からルールを変更させられる憂き目を見て来ました。

 

いまこそ、既存のゲームではなく、ゲーム自体を創始することに頭を切り替えなくてはならないのです。

 

その新しいゲームとは、いったい何なのでしょうか?

 

1人あたり国民所得や経済成長率といった昭和型の目標設定はもう古いです。

かといって、巷間よくある非成長主義や、「人新世」などと名を変えたマルキシズムのような浅薄な発想とも根本的に異なります。

 

国民所得も経済成長も、副次的な結果として実現するかもしれませんが、それが第一目標では人類として進歩がないではありませんか。

 

ここで提案するのは、社会正義、地球正義、生物全体正義を実現する経済システム、社会システム、地球システムの構築です。

社会正義と経済的な充足を同時に実現する、まったく新たな枠組みの創始です。

 

NPO法人など社会正義のための運動とも次元が異なります。

慈善事業や社会奉仕では、世の中は動きません。

寄付や募金は篤い志ですが、新自由主義的な専横や、銃弾飛び交う戦乱の前には無力です。

 

純粋に営利活動だけが「人の心」に伴う「欲望」と「ものごと」を動かし、継続させる力があります。

営利活動こそが、最も強力な社会変革のドライバーなのです。

 

産業革命もゴールドラッシュも純粋に民間の営利活動であり、国家や役所の奨励とは無縁でした。

現代のGAFAMにしても、米国政府が旗を振ったから、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがガレージで起業して隆興したわけではありません。

 

純粋に民間の営利活動こそが社会変革の原動力だった歴史など公知なのに、なぜ政府の旗振りに期待するのでしょうか。

 

再現しない昭和型高度成長の幻影を追うのはやめ、予期せぬ革新の素地を整えるほうが遥かに有益です。

 

純粋の金儲けではない、社会善、地球善を同時達成するようなまったく新たな営利主義が発明できたら、日本は世界の最先端に君臨できます。

「自分で創ったゲームを始め、いきなり首位に立つ」のです。

 

そんなことが果たして可能なのでしょうか?

 

可能にするには、条件があります。

 

それは、土壌を替えることです。

いまの土壌からは新たな芽が出ないことは、「失われた30年」で証明されたではありませんか。

 

この30年に1度も収穫できなかった畑を目の前にして、土壌に対する反省がないとしたら傲慢というほかありません。

 

土壌とは、人間です。古い人間による社会支配です。

古い人間とは、筆者を含めた昭和世代のことです。

 

ミレニアム世代やZ世代の発想と行動は、昭和の旧石器時代の人類とは根本的に異なります。

 

将来のことは全面的に彼らに委ねるべきです。

昭和世代による規制や口出しはもちろんのこと、助言も示唆も、全部即刻やめるべきです。

 

なぜなら、昭和人が成したことなど何1つとしてないからです。

高度成長は明治人の業績であって、昭和人は専ら費消だけしていました。

 

百歩譲って、明治人の計画に沿って忠実に下働きはしたかもしれません。

しかし、何1つ新たな世界を創始することはできませんでした。

 

明治の遺産を食いつぶした戦犯です。

世代として全員が罪の意識を持たねばならないのに、誰しも自分だけは別だと思っています。

そういう人物ほど社会的な提言を出したがるから困ったものです。

 

そんな戯言が後世の邪魔になる構図が理解できていません。

社会変革を実現できなかった1人ではないですか。

戦犯が大所高所から何を語ってもあとの世代は冷めています。当然です。

 

このゲームにおける昭和人の役割は、体が動く世代は、平成人の指示命令に従って言われた通り動くことです。

 

体よりも口を動かしたくなっている世代は、何につけても年長者の言うことしか聞かない昭和世代に対する説得役、つまり司令官たる平成世代の使い走りに徹するのが「はまり役」です。

 

それが嫌なら自宅のテレビで、黙ってこのゲームの戦況を見つめてほしいです。

心優しい平成世代の指導者たちは、哀れな昭和世代だけのためであっても、テレビという古びた媒体でも実況中継を放映してくれるでしょう。

 

この期に及んで、「良かれ」と思って、何か発言したり行動したりするのは厳禁です。

 

既に価値基準が遷移しているので、昭和世代は社会において判断するとか、重要な役割を演じのはやめたほうがいいです。

 

高齢者の老婆心ほど迷惑なものはありません。

老婆心なき老人になることこそ、昭和世代がなし得る最大の社会貢献と思い知るべきです。

 

迷惑なら無視すればいいのですが、地位のある高齢者の存在は、迷惑どころか妨害になるから始末が悪いです。

 

ところが、自分では良かれと思っているのです。

世代交代こそが生物の進化なのに、進化に取り残された個体ほど自分は進化していると誤解します。

もはや旧時代の遺物なのだと自分で認識することが、後世の進化を助けます。

 

いまだに昭和世代の中高年が集まって、「失われた30年を、どうやったら取り戻せるか」などと真剣に話し合っている場面があります。

新聞でも、テレビでも、街の講演会でも、そこらじゅうでやっています。

 

同世代の有名な「有識者」(つまりご老人です)を呼んできて、ご高説を拝聴している聴衆は、「うん、うん」「そのとおりだ」などと、しきりに共感しています。

 

爆笑です。

 

みんな他人事だと思って、真面目な顔で議論しています。

 

講師も聴衆も、「失われた30年」の当事者であり、犯人であるという意識がまるでありません。

大勢のコソ泥が集まって、大泥棒の昔話を聞いているのです。

 

同じ考え方の人が集まって、同じ発想の話に花を咲かせるのは、政治心理学の用語でいうエコーチェンバー(共鳴室)現象です。

 

無益で微笑ましいどころか、視野狭窄化と思考の尖鋭化を招き、ラディカルな破壊行動に至る集団を生みだすなど、最近では社会的に危険であることが明らかになっています。

 

「日本をどうする」講演会も、まさにエコーチェンバーです。

同類が集まっているので、親和性の高い話で盛り上がります。

 

これが危険です。 

耳にやさしい言葉を甘言といいます。

 

甘言は変革の敵です。

耳障りなことをいう人が1人もいないのが通り相場です。10~20歳代の次世代や、ホームレスやLGBTなど異質の世界の住人は、日本の針路を議論する場には最初から除外されます。

 

そんな危険なエコーチェンバーは即刻解散せねばなりません。

つまり、昭和生まれが全員退くことが、唯一可能な社会貢献なのです。

 

それができれば、まったく予期せぬ世界的な大変革の素地がこの国に誕生するでしょう。

 

何が起こるかは昭和世代の隠遁次第です。

大いに楽しみではありませんか。