英国ロンドンのロイヤルオペラハウス(ROH)のチケットが奇跡的に取れたので、行ってきました。
ヒースロー空港到着予定時刻が15:50で、開演時刻が19:30なので、この時点で3時間40分しかありません。
昔は地下鉄ピカデリー線で延々と1時間以上かけて都心に入るのが金欠旅行者の定番でした。
その後1990年代中半に、日本の成田エクスプレスを見て作ったというヒースローエクスプレスが開通して、これだと市内まで乗れば15分ということですので、こちらを選びました。
電車賃が大人1名25ポンドですから5千円を超えていますが、開演に遅れるわけにもいかないので、渋々これを買いました。
大きなスーツケースをもって劇場には入れてくれないし、街中にある荷物預け所も終演前にクローズしてしまうようなので、とにかく一旦ホテルに荷物を預ける必要があります。
国際線の場合には、数時間単位の延着、荷物が出てくるのが遅い、入国審査に長蛇の列という数々のリスク要因がありますので、こんなスケジュール設定は普通なら避けるところです。
今回は旅行会社も現地駐在員も何も頼るものなく、老齢のバックパッカーとして1から手動手配で臨みました。
時間厳守ということでLCCや中東系の航空会社ではなく、わざわざ選んだ日航機が最初から躓きます。
出発時刻を過ぎてもなかなか羽田のゲートを離れてくれないのには参りました。
到着地での芝居のチケットが紙屑になってしまうかもしれないギリギリの時間設定なので、イライラが募ります。
(もっとも、ROHでは紙っぺらのチケットは既に廃止されていて、遅刻したら紙屑にもなってくれませんが)
「出発に必要な書類の到着を待っております」とのアナウンスが繰り返され、40分後に白人男性客2人が乗り込んで離陸となりました。
待っていたのは書類ではなく乗客だったのですが、搭乗券という書類を待っているという方便を学びました。
この時代に「(物理的な)紙片が(最新鋭機の操縦室内に、人間の手足を介して)到着しないと出発できない」という古代遺跡を発掘するような理屈が、もっとも乗客の納得性を得やすいという経験則が通用していることに再度呆れているうちに、とにかく浮上してくれました。
ウクライナ戦争でアラスカ上空まで迂回して欧州へ行きます。
ロンドンには定刻の5分遅れで着陸と随分挽回しました。
チッキもスムーズに出てくれて、早い時刻のヒースローエクスプレスに乗ることができ、ホテルのチェックインを経て無事にコベントガーデンの劇場に到着しました。
夕刻のロンドン市内はひどい渋滞なので、地下鉄を選択して正解でした。
パディントンもトッテナムコートロードも、何から何まで1990年代のロンドンとは様変わりしていました。
華氏ではなく摂氏が普通に用いられていることも驚きでした。脱退したとはいえEUに加盟した効果でしょうか。
何よりも進化しているのは、地下鉄も路線バスもクレジットカードのタッチ決済で簡単に乗車できることです。
日本ではこんなローテクなことを「まず実証実験を経て」から、その結果を基に導入を「慎重に検討」するそうです。
実験自体の開始が数年後ですから、いったいいつまでかかることやら。
英国病と蔑んでいた老大国に完全に返り討ちに遭っています。
ちなみに、10日間で3か国を巡りましたが、現地通貨には一度も兌換することなく、すべてクレカ決済で済みました。
地下鉄の「(紙の)券売機」や「チャージ機」がいまだにクレカを受け付けない日本が国際標準になれるのはいったいいつのことでしょうか。
こんなことで懲りて「日本はもはや後進国だ」と先日ボヤいたところ、それを聞いていたベテランの弁護士さんに注意されました。
「その言い方は後進国に失礼だ。日本は前に進んでいないから、後退国と言わなくては」とのことでした。
さて、コベントガーデンでの演目はジョルダーノのアンドレア・シェニエでした。
指揮は、今シーズンで長年勤めたROHの音楽監督を卒業するアントニオ・パッパーノです。
彼とは浅からぬ因縁がありました。
自分がまだ20歳代で北部ヨークシャーの田舎町に居住していたころ、その町にはオペラハウスがありませんでしたので、長距離バスで1時間のリーズやマンチェスターまでたびたび遠征に行っておりました。
そこには、オペラ・ノースという田舎歌劇団が定期的に巡業に来ていました。
常打ち小屋ではないのですが、馬蹄形の立派な(しかし古い)劇場で公演を打っていまして、そこの常任指揮者がアントニオ・パッパーノでした。
彼もまだ20代だったと思います。
田舎歌劇団のオケは、なにせ劇場のオケピットが小さいこともあって総勢30名内外だったと思います。
管楽器は減らせませんから弦楽器が極端に少なくなります。
キーコキーコという小規模アマオケを彷彿とさせる弦の痛々しい響きが辺境の悲哀を誘ったものです。
それを率いていたパッパーノが、時代を経ていまや世界3大歌劇場の堂々たるシェフとなったばかりでなく、数々の名演で大きな名声を博し、あまつさえSirの称号を誇る大御所となって、その最終演目に立ち会うことができたのは不思議な縁でした(先方は縁とも何とも思ってませんが)。
開演時刻となり、オケピットの奥からパッパーノが登場するや、聴衆がそれこそヤンヤの大歓声で始まる前から熱狂的に迎えました。
晩年の朝比奈隆とでもいった存在感です。
日本ではお声掛けはご遠慮くださいみたいな「お客様のご配慮」をなぜか「強要」されるのが常で、いまや歌舞伎の大向うも松竹の指定した特定個人しか声を出せない不可思議な「お願い」を愛好家も甘受しているのと比べると、なんでも欧米が良いのだという出羽守になるつもりはないとはいえ、そういう図式に持ち込みたくなるのが内弁慶の悲しいところです。
劇場の施設面で30数年前と変わった点といえば、5階の天井桟敷の音響が劇的に改善されていたことです。
1900年代には、天井にスピーカー(ひどい安物で、シャッター通り商店街で懐メロを垂れ流しにしているレベルのもの)が設置されていて、全部ではなく曲の一部(アリアの高音部とか、一番の聞かせどころ)の箇所では自然音響をかき消すようにスピーカーから唐突に電子音声が出て、ひどく興醒めしたものでした。
それが今回は、その後の大規模改修により天井桟敷まで自然音響で聴くことができたのは、嬉しい誤算でした。
(あるいは、区別できない程度まで高度化された電子音響だったのかもしれませんが)
変わらない点は、英国の老紳士老淑女が相変わらず幕間にはアイスクリームを競って求め、そこかしこの通路の床に座り込んで食べることでした。
技術は進化しても、人の習性は容易に変わらないみたいです。