「事業継承」か「事業承継」か?

初稿 2017年8月

補遺 2018年1月

 

 

                                                                                                                                                             上野 善久

 

 今の日本は空前の事業承継ブームである。

 ためしにグーグルで検索してみると、ヒットしたサイト数は、「事業承継」では「約9,990,000件」と表示され、「事業継承」では「約1,450,000件」と表示された(2017年8月18日13時時点)。 厳密には、「事業継承」として検索したにもかかわらず、「事業承継」と自動的に読み替えて結果表示されている(その逆もあり)サイトもかなりの数に上っているが、大要としては、約1000万件対150万件という大差で「事業承継」が優位となっている。

 これには、中小企業における経営の承継の円滑化に関する法律(平成二十年法律第三十三号)、通称「事業承継円滑化法」の成立によって、国が「事業承継」という用語を正式に採用したことも影響している。これ以前から、もともと法律用語としては、民法、刑法、会社法などにおいて、「継承」ではなく「承継」が永らく用いられてきた。

 ところで、インターネットサイト上で何らかの「解説」がなされている場合においては、あたかも公知の事実か、もしくはその執筆者の独自の論考であるかのように、実に堂々とした論陣を張っているケースも少なくないが、その実は、既存のサイトの同様箇所からの無断引用であることも多い。その結果として、同じような記述が流布してしまうことになる。

 この「継承/承継」の意味の相違点についても、これに該当する。

 現在、インターネットサイトにおいて最も支配的な記述は、「継承とは、先の人の身分・権利・義務・財産などを受け継ぐこと」であり、「承継とは、先の人の地位・事業・精神を受け継ぐこと」という相違であるとするもので、非常に多くのサイトにおいて全く同様もしくは酷似した記述がみられる。

 これは、三省堂発行の『大辞林』がネット上で無償で閲覧できるために、同書の語義解釈が多く参照されていることが原因と思われる。

 そこで筆者は、インターネット出現以前の語義解釈を調べるため、図書館において紙媒体の国語辞典を縦覧した。ここにその結果を転載する。(漢字、仮名遣い、句読点、項目番号、カギ括弧、出版年表示等は原文のまま)

・岩波書店『広辞苑 第2版』(新村出・編、昭和44年)

 継承:うけつぐこと。承継。

 承継:①うけつぐこと。継承。②〔法〕権利または義務をそのまま引き継ぐこと。

・三省堂『広辞林 第5版』(三省堂編修所・編、1970年)

 継承:先代・先任者などの地位・身分・権利・義務などを受け継ぐこと。

 承継:受け継ぐこと。

・三省堂『大辞林』(村松明・編、1988年)

 継承:先の人の身分・権利・義務・財産などを受け継ぐこと。

 承継:先の人の地位・事業・精神などを受け継ぐこと。継承。

・講談社『日本語大辞典』(金田一春彦・他・監修、1989年)

 継承:先代・先任者のあとを受けつぐこと。succession

 承継・紹継:①受けつぐこと。succession

       ②法律で、権利・義務を引きつぐこと。inheritance

・新潮社『新潮日本語漢字辞典』(新潮社・編、2007年)

 継承:先代や前任者から、身分・権利・財産・技術などを受け継ぐこと。

 承継:受け継ぐこと。継承。

・冨山房『新編大言海』(大槻文彦・著、昭和31年新訂版初版、昭和57年新編版第三刷)

 繼承:ウケ、ツグコト。

 承繼:ウケ、ツグコト。繼承。

 

 以上に掲げる国語辞典の解釈からいえることは、継承と承継を比較すると、(1)意味する内容はほぼ同じである。(2)一般的には「継承」が人口に膾炙しているので、「承継」の意味する内容として「継承のことである」という記述もある。(3)法律用語としては「承継」を用いる。--ということになる。

 要するに、一般的にはどちらでも大差ないということである。

 これは現代の日本語を扱う辞書の限界とみて、次に漢和辞典に当った。

・大修館書店『大漢和辞典』卷五、卷八(諸橋轍次・著、初版1957,1958年、修訂第2版第7刷2007年)

 繼承:うけつぐ。先代の地位・身分等をうけつぐ。承繼。

 繼紹:うけつぐ。先代の事業をうけつぐ。紹繼。

 紹繼:うけつぐ。繼承。

 承繼:㊀うけつぐ。前代のことを引きつぐ。次々へ傳へ繼ぐ。繼承。

    ㊁他人の子を己の後繼とすることと他人の後繼となること。あととり。繼嗣。

・角川書店『角川漢和中辞典』(貝塚茂樹・他・編、昭和34年初版、昭和42年70版)

 承継:受け継ぐ。承襲。(同)継承

 紹継:前の事を受け継ぐ。

 継承:あとを受け継ぐ・(同)承継

 継紹:事業を受け継ぐ。(同)紹継

 なお、同書845頁の「継」の字の解説において、「参考」記載があって類義字の比較が解説されている。それによると、“「つぐ」の同訓は継・次・接・尋・紹・続・嗣・襲。継はつなぎあわすこと。(中略)紹は、家や徳・業などをつぐこと。(後略)”とあり、「承」の文字は同義字とはされていない。

 このように、各種の定評ある国語辞典や漢和辞典を総合的に勘案すると、「ファミリービジネスの経営者もしくは経営権を、現任者から別の者へ引き継ぐ」という意味内容における「事業○○」という場合には、「事業継紹」と表現することが最もふさわしいというのが筆者の見解である。

 中でも、全15巻の超大作で世界最大の漢字辞典と言われる大修館の『大漢和辞典』、通称「諸橋大漢和」に注目すべき解釈が載っている。すなわち、継紹とは先代の事業を受け継ぐことで、承継とは他人の子供を後継者にすることである、という箇所である。斯界最高の権威を誇る漢字辞典によるこの解釈は重い。

 ただし、現在の日本では「紹」という字が使われるのは、僅かに「紹興酒」という中国・浙江省紹興産の酒を指す場合にほぼ限られることから、いまさら事業の引き継ぎに用いることは違和感があるだろう。

 そこで筆者の結論としては、「承継」は法律用語であり、権利・義務の一切を自動的に引き継ぐことになる包括承継の意味合いを連想させてしまう惧れもあることから、上述の「ファミリービジネスの経営者もしくは経営権を、現任者から別の者へ引き継ぐ」ということを指し示す一般的なケースにおいては、「事業継承」を用いるべきであると判断する。

 その意味では、中小企業庁が全国47都道府県に設置している「事業引継ぎ支援センター」は「引き継ぎ」という平易な用語を用いている点で、一般事業者の心理的なハードルを下げようとの意図が見られるのに対して、逆に民間企業のほうは「事業承継」という、固くなじみのない用語でほぼ統一されており、自己の業務に権威を付与したいという無意味な意図が横並び意識で増幅されていると感じる。